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【楽演祭Vol.2】トータス松本×藤巻亮太 講義全文公開

楽演祭Vol.2にゲストととして迎えたのはトータス松本さんと藤巻亮太さん。今回は、互いにウルフルズ、レミオロメンのバンド活動もあり、ソロ活動もされているというところもあり、「バンドとソロの違い」をテーマとしてお話していただく……、つもりではあったが、その話は多岐に渡り、それが逆に〝トータス松本〟、〝藤巻亮太〟というミュージシャンの個性について感じる講義となった。

バンドを始めたきっかけ

――宜しくお願いします。
トータス松本(以下、トータス):宜しくお願いします。
藤巻亮太(以下、藤巻):宜しくお願いします。
――お二人はこういった形で対談されるのは初めてでしょうか。
藤巻:初めてですね。この話をいただいた時に、僕もレミオロメンというバンドをやっていて、今、バンドを休止して藤巻亮太としてソロ活動をしているんですが、同じくバンドとしても、ソロとしても大先輩であるトータス松本さんとトークとライブをご一緒させていただけたら、とお声掛けをしてもらったんです。そして、今日この場があるということで。
――そうなんですね! トータスさんは藤巻さんからお声がけいただいて、面白そうだと思われたんですか。
トータス:そうですね。あまり交流がなかったので、どんな奴か知らんまま(笑)。1回、顔合わせで打ち合わせをして、そこから1回飲みに行こうと言って飲みに行って、今日にいたるという(笑)。
――そういうフレッシュな関係での、今日の講義なんですね。
藤巻:そうなんですよね。
トータス:2回くらいしか会ったことないもんね。
藤巻:大先輩ではあるんですけど……。
トータス::大先輩って(笑)。それほどでもないよ(笑)。
藤巻:いやいや、でも、夏フェスとかそういうところでご一緒することはあっても、それ以外はそこまで接点なかったですよね。
トータス:なかったね~。
――こういう教室で話すというのもミュージシャンとしてはあまり経験されない事ですよね。ここにいる学生さんたちはだいたい18歳~20歳くらい。トータスさんも藤巻さんも、この年齢の頃にはもう音楽家、ミュージシャン目指していたと思うんですが、この学生さんたちの歳の頃の自分ってどんな感じでしたか?
トータス:18、19歳……、高校出ましたね。
<会場笑>
トータス:高校出て、もうちょっとグダグダしたくて……、就職というのも……。まあ、僕生まれたのが、すごい田舎なんで、周りの友達はどんどん田舎で就職していくわけですよ。ガソリンスタンドとか、家の稼業継いだりとかね。で、もうちょっとグダグダしていたかったので、とりあえず口実を作って大阪で一人暮らしを始めるっていうね。それが18の時ですかね。バンドは始めたかったんですけど、メンバーがいなかったんで悶々と一人でギター弾いて……。狭いアパートでね。
藤巻:僕、一応進学したんですよ。で、大学に行って、その頃は、僕はまだやっていきたいこととかもぜんぜんなくて、とりあえず建築士になりたかったんですよ。
トータス:へー! 建築士!
藤巻:そうなんですよ。めちゃくちゃ理系で。設計士になりたかったんですね。でも、ぜんぜんその大学が受からなくて、「建築」という建物を建てる学部と、土木という橋とか立てる学部で、その二つって微妙に違うんですよ。で、土木の方しか受からなくて、コンクリートとかの勉強をしていました。
トータス:コンクリート?
藤巻:そう、一番最初に作った曲って「コンクリート」って曲なんですよ(笑)。
<会場笑>


――その時点で、好きな音楽、自分に影響を与えた曲ってもう18くらいの時に定まっていた感じですか?
トータス:あったあった。
藤巻:ありましたね。
トータス:僕は、もう亡くなられてしまいましてけど、忌野清志郎さんですね。その人がRCサクセションというバンドをやっていて、僕らが中学の頃に流行ったんですよね。今までの歌謡曲と違った感じのロックバンドというのが、わりとチラホラ出てきて、滅多にテレビ出ないという……。そういうカリスマ性に魅かれていったというのが一番最初。
学生のみんなは知らないでしょ。〝昭和〟音楽大学といっても、みんな平成生まれでしょ(笑)。藤巻くんは昭和?
藤巻:僕、昭和です。
トータス:ああ、良かった! 俺も昭和。
<会場笑>
藤巻:昭和長いですからね(笑)。トータスさんはど真ん中くらいですよね。
トータス:藤巻くんは昭和何年?
藤巻:僕は55年です。
トータス:昭和終わりの頃だね。俺は昭和が一番輝かしい頃だからね。41年。バブルの時やね。要するにメチャクチャ高度経済成長が来ていた時に生まれたんだよ。
――藤巻さんはちょうどそのバブルが終わった頃の?
藤巻:いや小学校5年くらいで、「(バブルが)ハジケタ、ハジケタ」っていう。「なんだ? なんだ?」っていう感じ。
トータス:ちょうど昭和の終わり頃にバブルがはじけたからね。そんなの学生さんは知らんもんな。
――お二人はちょうど14歳差ですよね。トータスさんが18歳の時に藤巻さんが4歳。
藤巻:そこで比べると相当子供ですね(笑)。このくらいの年齢になると話していて普通ですけど(笑)。
トータス:4歳! 保育園とかだね(笑)。
――だから、トータス:さんが影響を受けたRCサクセションは当然、藤巻さんは間に合っていない。
藤巻:そうですね。大人になってから知るって感じですよね。
――その代わりっていってはなんですけど、藤巻さんが10代に影響を受けた曲っていうのもあるんですよね。
藤巻:それこそ、ウルフルズさんの「バンザイ 〜好きでよかった〜」とか10代の時にカラオケで歌っていましたからね。その頃、「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」(フジテレビ系)という音楽番組もあって。あれ? みなさんは知っていますかね。
――最近、深夜番組で復活したんですよ。
藤巻:そうなんですね! その番組でトータスさんが出演していて。
トータス:あの時、ちょうど30歳ぐらいやったけど、その時、ようやく高校生になったの? 4歳やった人がね(笑)。
――そうなんですよね。藤巻さんが高校生の時はちょうどカラオケブームでJ-POPというものが歌謡曲に変わって台頭してきたころで。その頃、トータスさんはウルフルズとしてブレイクする、という。でも、世代差はありますけど、お互い憧れのミュージシャンがいて、音楽の道を選んだというのは一緒ですよね。
トータス:藤巻くんは憧れのミュージシャンとかいたの?
藤巻:うーん、ここにいる学生のみなさんは音楽が好きでこの大学に入ったんでしょ? 僕は結構違って、建築士になりたくて、なれなれなかったわけですよ。で、18歳の時は何やっても中途半端で、何をやっても続かないな、という劣等感が、みなさんくらいの頃にあって。劣等感って自分の内側に向きますよね。で、劣等感にさいなまれて、苦しいって思った時に、はじめて自分で曲を作って、曲を作った時に、「ああ、これ気持ちいいかも」と思って、内側へ向かっていたエネルギーが外側になる経験をして、それから音楽がどんどん好きになって……。だから、僕はそこからなんですよね。憧れがあったというよりは、そこからなんですよね。
トータス:最初からギター弾いていたの?


藤巻:弾いてましたね。ギターは弾いてましたけど、トータスさんも田舎って言ってましたけど、僕も生まれが本当に田舎で、山梨なんですけど……。
トータス:そうやね。モモとブドウの農家やもんな。
藤巻:そうなんです。
トータス:うちはコメや。俺んちはコメつくってからね。近くの店とか文房具屋と化粧品屋と本屋と駄菓子とか一軒でやってましたからね。
<会場笑>
トータス:笑。一つの店いくとなんでもある。そういう状態でしたからね。
藤巻:もっと都会だと思ってました。
トータス:違うよ。だから大阪に取りあえず出ないと。とにかく18になったら大阪に出ないと、っていう状況でしたからね。
藤巻:僕も山梨県っていう。行ったことあります? 盆地なんですよね。盆地で、桃と葡萄畑しかなくて、楽器屋さんも甲府までいかなきゃない、という。その甲府までも結構遠い。
トータス:藤巻くんは生まれは御坂だよね。この間通ったよ。もう、モモ、ブドウ押しがすごいよね。車で通っていると、、モモ、モモ、モモ! やたらのろしでブドウ、ブドウ、ブドウ!ってあってな。最後、イチゴ!って出てきてたな。あ、イチゴもあるんやって(笑)。なんか糖度で押してくるよね笑 糖度で攻めたくなるんやろうね(笑)。
<会場笑>
――そういう盆地の環境が藤巻さんは大きかった?
藤巻:そうですね。当時ギターを買ったのも通販で……。
トータス:「二光」のギター?
藤巻;いや、「VIVA」です(笑)。
トータス:「VIVA」ってメーカー名? なんで「VIVA」? 俺らの頃はね、だいたい「フェンダー」になぞらって、「フレッシャー」とかね、「ギブソン」で「Gibbon」とか笑。「VIVA」って何にもなぞらってないよね(笑)。
藤巻:(笑)価格はニーキュッパとかね。アンプもチューナーもついて。
――そうやって田舎ならではの……。
トータス:やー、スーッとまとめるね(笑)。こっちが「まとめんとこ」、「まとめんとこ」としているのに(笑)。偉い!
藤巻:トータスさん、講義らしく! 講義らしく!


――(笑)。藤巻さんは、盆地という環境が精神的にも音楽を始めるきっかけになっているみたいですが、トータスさんはどうですか? 大阪という街について。
トータス:大阪はね、僕らにとっては憧れの街。神戸、大阪にあらゆる自分の欲しいものがあるっていう。
――関西でいうと神戸はオシャレで、大阪はエネルギッシュというイメージがあるんですけど。
トータス:そうかも。神戸のお店に整髪剤を買いに行ってたもんね。いや、そういう時代よ。だって、例えばね、70年代後半にニューウェイブっていうのがあって、世界中からいろんなとんがった格好いい人たちが出てきて、日本にもチラホラいたんですよ。そういう人が髪の毛をツンツン立てているヘアスタイルを本とかで見て、これ、どうやったらこんななるんやろ、っていう。だって洗面所の鏡開けたら、親父のへんなのしかないんやん(笑)。どう塗ってもああにはならんよ。で、本見たら、なんとかいう整髪剤が輸入されて、神戸のお店で売っているって書いてあるから、「よっしゃ、神戸行ったる」って思って。そういう時代よね。今みたいに、スマホでなんでも買えないからね。
――でも、そんなトータスさんは、それで大阪で出会った仲間とバンドを組んでウルフルズになる。
トータス:そう。僕は結局、専門学校行ったんですよ。18で。家がコメの農家と繊維業……布を織るね、それで、うちはシーツとか、中華料理屋のテーブルクロスとか、ああいうのを織ってたのよ。で、繊維に関わることだったら、もしからしたら親が許しでくれるんじゃないかな、と思ってファッションデザイン専門学校に行ったんですよ。稼業に紐づけて、親をだまくらかすために。で、言うたら、親も「まあ、いいんじゃないか」、という感じで。
で、本当はそういうファッション専門学校に行くと、割と自分の感性に近い「いや、実は音楽やりたいねん」っていうヤツがいるんちゃうかな、と思って。
――で、いたんですか?
トータス:いやなかったんですよ(笑)。一人もいなかった。その頃はDCブランドのブームがあって。ものすごい昭和のね、ハウスマヌカンっていうね。いや、学生さんメッチャ置いてきぼりですみません。そういう昭和の流行があったんです。今でいったらヨウジヤマモトとかコムデギャルソンとかああいうイメージ。若い頃はみんなそれに飛びついて、カバンがわりにコムデギャルソンの袋を持っているんやで。
――ヨウジヤマモトの服にコムデギャルソンの袋持っている集団のなかにトータスさんがいるんですから、それは浮きますよね。
トータス:そう。だから全然価値観が共有できない。でも、2年間がまんして「どうにもならんな」と思って、2年後に話をして、親父に怒られて「お前! 嘘ついたな!」って言われて「オレを騙したな!就職しろ!」って言われたんだけど、「いやー、このまんまじゃ踏ん切りつかへんわ」って気持ちになって。で、実際、アパレルの仕事も2社受けたんですよ。そしたら落ちたんですね。当時、カッコはお尻までロン毛で、それ束ねていた。でも、俺、腕前は自身があって。製図とかソーイングとか授業の成績は良かったから絶対受かると思っていったの。で、いったら他の奴らはなんていうのDCブランド着ているチャライヤツやから、絶対こんな奴に負けへんぞ、と思ってたら、負けたんですよ。それですごいブライドが傷ついて、「この俺を落としやがったな、金輪際、就職はせん」と思って、それを親父に言ったら、親父にどつかれそうになったんだけど、ここは頑張っていってみようと思って。「お父さん、25歳まで。取りあえずあと5年多めに見てくれ、やりたいことがどうしてもある。どうしてもそれがやりたい」って言ったんですよ。そしたら「それはなんや」って言うから、「実は音楽やりたい」って言うたら、「なんやって?」って怒られて……。で、さらに小さくなりながら「音楽がやりたい」って言って。親父がメッチャ怒っていて……、そりゃ怒るよね。「ただの農家でありながら! そんなヤツは出したことがない。ただの農家でありながら、オマエは何をアホなこと言うとるんや!」って言われて……。で、家族会議。水を打ったようにシーンとなってて。うちのオカンが、俺、末子やから、オカンが甘いんですよ。
「まあまあ、お父さん、そこまで言うんなら5年好きにさせてやったらええやないの」と助け船を出してくれて、で、「そのかわり、金輪際仕送りとか一切せん、自分で全部やるんなら25まで、やるならやれ!」くらいの感じで親父に突き放されて、で、やっとこうバイト生活に入るわけですよ。


――そうですよね、その時はまだ、ウルフルズも結成してない?
トータス:してない。どこの何者でもない。ただギターがちょっと弾けるだけ、っていう。曲も書いたことなかったし。
――そうですか?
トータス:曲はバンド組んでから必要に迫られて、書き始めたんだよね。ライブがあるから、やっぱオリジナル曲ないとダメなんで、書き始めたの。でも、俺はバイトが人生のものすごく転機。たまたまバイトで、面白そうだから働こうかなと思って入った喫茶店に今のメンバーがいたんですよ。
――そういうところでつながったりするんですね。
藤巻:バイト仲間としていたんですか?
トータス:そう。それは、俺はほんま知らんかったんだけど、ミュージシャンとか、演劇とか、絵描くヤツとか、そういうちょっと普通に働いてるヤツじゃない、将来ちょっとこんなことになったら面白いなぁと思ってるようなヤツが集まるような店やったんですよ。  
――それを知らずに入った?
トータス:知らずに入った。
――でもそれはすごい運が良かったんですね。
トータス:お茶してる時に、店の雰囲気を見て、働いてる人たちを見て、なんかこの店で働いたら楽しそうやな、っていう勘でね。
藤巻:直感ですね。
トータス:そしたらいっぱいいて。

――藤巻さんはレミオロメンのメンバーはどうやって出会ったんですか?
トータス:レミオロメンって変な名前よね?
藤巻:そうなんです。すごい変な名前なんですけど、僕はほぼ幼馴染なんですね。小学校から同級生で、小中そんなに仲良くなかったんですけど、高1でブラバンに入って……。
トータス:何やってたの?
藤巻:僕はトロンボーンをやってて。で、ドラムの神宮寺(治)とベースの前田(啓介)がパーカッションやってて、で、そこでグーッと仲良くなって、学園祭バンドみたいなやつ組んだんですよ。だけどまだオリジナルとかはなくて、で、大学に行って、曲を1曲作ったっていう……、「コンクリート」って曲を作ったんですけどね(笑)。〝一人旅は寂しい~〟みたいな曲で脈絡も何もないような曲を作って。
トータス:でも秀逸だよね、「コンクリート」っていうタイトルが。ちょっとボブ・マーリーみたいなね。なかなかいい、コンクリートジャングル的なね。冷たさを歌ったわけやな。
藤巻:そうなんですよ、冷たさを。で、その時に、二十歳かな? 二十歳の時に再会して、「ちょっとバンドでも組んでみる?」という話になり。で、ベースの啓介は高校も辞めてプロ目指していて、それこそ浜崎貴司さんのバックで当時、ソロになりたての浜崎貴司さんのサポートしたりとかしてて。で、彼だけ音楽業界に詳しくて、で、彼が知ってるってことで、ちょっとプロ目指そうかという感じで。当時、僕は群馬県の大学に通っていたんですよ。トータス:山梨から群馬に出て……。全然、海を見ない!
藤巻:そうなんですよ、なかなか海が見えないんですよね(笑)。なかなか青くならないんですよね(笑)。
トータス:そこで自分を開放したりしてたの? 
藤巻:してないんですよねぇ、溜まってくんですよね、全然イケてない感じで。で、ベースが東京、ドラムが山梨っていう、3人の遠距離バンドで。
トータス:遠距離バンド!
藤巻:それでよくプロ目指しましたよねぇ。週に1回とか月に何回とかしか会って曲作りができないし。まぁそれでもやってみようか、って言って、3人でバンド名って全然決まらなくて、3人でジャンケンして、最初に勝った人が1文字、次の人が2文字、最後の人が3文字、好きな頭に浮かんだ文字を言い合おうって言って、1回やって僕が勝って、次にドラムの治が勝って、最後に啓介が勝ったんですけどね。僕は当時、レディオヘッドってバンドがとにかく好きで、みんな(学生さん)くらいの頃に『OK Computer』ってアルバムがあってむちゃくちゃ聴いてて。
トータス:生まれる前やん!『OK Computer』ね。97年くらい?
藤巻:あれ97年くらいなんで、僕ディレイして聴いてるんですけど。
トータス:うわぁ、生まれてないのかよ、。すげぇな。
藤巻:そう。だからレディオヘッドの、日本語読みで「レ」をもらおうと思って、僕が「レ」って言って。
トータス:「レ」、って言ったの?
藤巻:
「レ」、って言って、次に治が、当時好きだった子の名前の頭文字の「ミ」と治の「オ」で、「ミオ」って言って。ほんとに後先考えてなくて(笑)。
トータス:それで「レミオ」になって。
藤巻:それでレミオになって。で、ベースの啓介が、その啓介の家でバンド名を作ったのかな? そこに「こち亀」(「こちら葛飾区亀有公園前派出所」)があって、「こち亀」の表紙が路面電車に乗ってる絵で。
トータス:マジで!?
藤巻:で、「ロメン」でいいやって言って、せーの!「レ・ミオ・ロメン」、って言った時に、なんか悪くないね、ってなって(笑)。
トータス:じゃあ、レミオロメンじゃなくて、レミオ〝路面〟なんや。
藤巻:そうなんですよ(笑)。造語で。
トータス:えぇ、知らんかったぁ。おもしろ!!


藤巻:そういう意味でいったら、直感なんですよね。なんかこの感じすごい好きだなぁと思って。当時親とかには、そんな覚えづらい名前どうのこうの、って言われたんですけど。ま、それで二十歳で組んで、そこからですね。で、僕、特異な時間があって、その遠距離時代っていうのは全然結果が出なくて、僕そのまま……、大学って何歳で卒業するんだっけ? 22? プー太郎で卒業するんですけど、要は何も結果が出ないので。で、そこで3人で1回悩んで。トータス:さんは25って言ってましたけど、僕らはビビリだったんで、とりあえず卒業してから4月から8月までに結果が出なかったらもう辞めよう、って。
トータス:え? 4ヵ月?
藤巻:4ヵ月。
――結構短いですよ。
トータス:すぐ終わるよね。
藤巻:そしたら公務員の勉強とかしようかな、みたいなね、感じだったんで、とにかくその半年間だけ頑張ろうって、その間はスタジオ代とかバイトしなきゃいけないじゃないですか。お金ないから、とりあえず山梨に戻ろう、もう一回実家暮らしをさせてもらおう、って、プー太郎として戻ってきて、半年間だけ家に住ませてくれって言って。まぁブドウ畑とか桃畑とかしかないような町なんですけど、僕のおばあちゃんの家が神社なんですよ。その神社の隣がね、空家だったんです。で、そこがあったから、借してくれないかなぁと思って。親づてに頼んで、すごい田舎の畑の中にある神社の母屋の空家を借りて、そこをスタジオに改装して、3人で公務員のように月~金でそこに通って、朝から晩まで曲作りして、リハーサルとかして、土日は山梨から下北沢って車で1時間ちょっとなので、とにかく土日は下北でライブしようっていって。僕たちレミオロメンの中では神社時代って言ってるんですけど、ひたすら神社に1年間通うっていう。そこで、そしたらね、やっぱり神様いたんですかね?
トータス:神社だったから(笑)。
藤巻:いい曲できて(笑)。そこでですね、8月に入って、いろんな方が見てくれるようになって、一個チャンスをつかんで。それが2002年だったんですけど、2003年にはデビューできるってなって、そっからクソ速いっていう。
――神社時代に相当するような時代って、ウルフルズにもあったんですか? ひたすら仲間たちだけで集まるとか。
トータス:うん。神社時代ほど過酷ではなかったけど。月~金、神社でしょ? 土日仕事でしょ? それすごいわ。俺らもうちょっとのんびりしてたかな。バイトしながらシフトをメンバーと共有してたので、じゃあここみんなで空けようぜ、って言って。で、ここはスタジオ入って、って。バイト先のすぐ近くのガード下にスタジオがあったんで、そこに集まってバイトの合間に練習するっていうね。でも結構それはね、1年……、最初のライブハウスのステージに出られるようになるまでは、半年くらいはそこでみっちり。
――やっぱりそうなんですね。最初はいきなりオリジナルじゃなくカバーから始まる?
トータス:そう、だから、洋楽の歌に無理やり日本語つけて新曲のようにやる(笑)。
――ばれない?(笑)
トータス:SNSがなかったから良かったけど(笑)。呑気な時代だった。
――どんなカバーを?
トータス:ま、(ローリング・)ストーンズまでいくとやり過ぎなんで、もうちょっとマニアックなグループの曲とかね。古いR&B、ま、リズム&ブルースって言ってたけど、そういう曲とかをやってたかな。
――藤巻さんもカバーをやられてた?
藤巻:作り始めてから、カバーを一切したことがなくて。
トータス:へぇ。
――ストイックですねえ。
藤巻:そうなんですかね? 逆に言うと作ることがすごく好きだった。
トータス:でもそこでみんなの意識がひとつになったのがすごいね。だいたい一人くらい文句言うじゃないですか、こんなことやっててもしまいやぞ、とか。
――月~金、神社で土日、仕事で、どこにも遊びにいけないわけで。
藤巻:やっぱりね、それは大きくて、結局この、「橋を焼く」っていうじゃないですか。
トータス:橋を焼く?
――それって、どういうイメージですか?
藤巻:川を渡るときに橋を渡るでしょ。渡った時にその橋を燃やしちゃうっていうか。もう帰れないね、俺たち、みたいな。それがよかったかもしれない、当時ね。
トータス:なるほどね。すごいなぁ。